ミレーの代表作の一つ「落穂拾い」と言えば美術ファンも皆様ならどなたでもご存知でしょう。ミレーが現在オルセーが所蔵している「落穂拾い「をパリの官展に出展したのは1857年の春でした。しかし、その前年に、別の「落穂拾い」を制作したベルギー人画家がいたと言えばどうでしょうか。その画家は19世紀後半にベルギーで貧しい農民や労働者達を描いたリアリスムの旗手シャルル・ドゥ・グルー です。彼は後にゴッホもしばらく在籍したブリュッセルの王立美術学校で、当時ベルギーで肖像画家として最も有名だったフランソワーズ・ジョゼフ・ナヴェに約10年間も師事しました。そのナヴェ先生は、ベルギーに亡命していた新古典主義の巨匠ダヴィッドの弟子でもありました。
しかし、1年後に「落穂拾い」を完成したミレーがドゥ・グルー からアイデアを盗んだのでは決してありません。2枚の「落穂拾い」が描かれた1850年代は、フランスの第2帝政の真っ只中であり、産業革命が急速に進行しつつあった時期です。それまで、約1000年間ほとんど変わらなかったフランスの農村は、農民たちが労働力を必要とする都市部に移住したために過疎化が進み、かつての麦畑の多くは牧草地に変わってしまいました。
また、産業革命によってもたらされ合理主義は、農業にも変化を生じさせました。地主達が、旧約聖書の時代から、貧しい者達の一種の既得権であった、収穫直後に畑に散在する落穂を拾う「落穂拾い」の規制を始めたのです。全収穫量の10パーセントにもおよぶ落穂は、合理主義に目覚めた地主にとっては大変なロスであり、当然規制すべきものでした。しかし、その日の食べ物すら十分にない貧乏な者にとっては、それは死活問題でした。その地主と貧しい者達の「落穂拾い」にまつわる葛藤を文豪バルザックは1855年「農民達」という小説で取り上げました、つまり、シャルル・ドゥ・グルー の「落穂拾い」は、バルザックの小説の翌年、オルセーの「落穂拾い」はその2年後に制作されたのです。製作年だけ見ると2枚の「落穂拾い」は、バルザックがその火付け役だったように錯覚しますが、実際には、ミレーの「落穂拾い」の最初の習作は1851年であり、山梨県立美術館所蔵の縦長の「落穂拾い」は1853年作です。ちょうどこの年代にフランスとベルギー両国で、落穂拾い規制が大きな社会問題になっていたことを想像させます。
それでは、シャルル・ドゥ・グルーの作品をもう一度見てみましょう。絵に描かれた光景は、恐らく収穫が行われた次の日の昼下がりでしょう。人の影が短くて、太陽が頭上から照らしているのが分かります。貧しい娘さん4人ともう大きいお兄さんが落穂を拾っています。4人の娘さんのうち、3人は頭にかぶりものをしておらず、歳が若いことを示唆しています。右端の少女と左の女の子は、エプロンの下側を腰まで持ち上げて、大きなポケットのようにして、落穂を中に入れながら拾っています。でも、あまりに暑いので、中央の赤いブラウスの女の子は、お兄さんから水がめに入った水をもらっています。その右側のお姉さんは、一番年上なのに疲れてしまって地面にしゃがみこみ、様子を見に来たお母さんが、こぶしを見せて怒鳴ってるようです。
ところで、ベルギーの麦の収穫は、北フランスとほぼ同じ時期、8月上旬に行われます。絵の背景には、納屋に運び込まれる前に、畑に積み重ねられた、穂がついたままの仏語でMEULE と呼ばれる麦束の小さな山が見えます。これは、ミレーの「落穂拾い」の背景に描かれたヴイロッツvillotteまたはポシャードpochardeと呼ばれた高さが5メートルほどもある巨大な麦わらの山とはずいぶん異なっています。これに似た小さな麦の山は、ブリューゲルの「四季」の作品にも描かれています。
*絵をクリックするとポップアップで拡大画像が開きます。開かない場合は、アドレス バーの [互換表示] ボタン をクリックすると表示されます。
|